大和郷(ヤマトゴウ)

大和神社の杜は蒼々と広がり
一の鳥居から参道は200m道幅は30mほどあります
ニの鳥居からは広がります
広大な神域ですが、かつては八町四方ありました
そして四至を固めていた神社がありました
かつての神域には今も9つの集落があり大和郷と称します

大和郷が形成された過程は明らかではありませんが
かつて栄え、大和神社の焼失に伴い衰えていきました
中世以降はちゃんちゃん祭の神事のために集まっていたとされています
現在は旧村である新泉、兵庫、岸田、長柄、中山、萱生、成願寺、佐保庄、三昧田の9つの地区をさし
ちゃんちゃん祭および全ての神事、大和神社の維持管理を務めています
現在の大和神社があるのはこの方々の助力によります

【四至の固め】(耕作地・所有地・社域などの四方の境界)
 南西の固め : 素盞鳴神社(新泉町)の元の鎮座地。字南池辺の小丘に鎮座して通称「一本木さん」
        昭和17年に柳本飛行場が作られたとき、現在の場所にうつされました
 南東の固め : 素盞鳴神社(成願寺町)
 北東の固め : 太田神社(佐保庄町) 通称ちんじんさん
明治18年に現在の素戔嗚神社にうつされました
 北西の固め : 市杵島神社(福智堂町)
        明治42年に永原町の御霊神社に遷座 元
の場所は現在は畑

新泉 にいいずみ

古代の穂積氏がこの辺からその西南にわたって勢力を持っていたと伝わります

新泉町の村社 素戔嗚神社

新泉町の素盞鳴神社は、元は大和神社の四至の一つで
字南池辺の小丘に鎮座して「一本木さん」と呼ばれていました
昭和17年に柳本飛行場が作られたとき、現在の場所に移されました
社前に旧社地(一本木)から移した寛延元年(1748)の石灯籠が有ります
現在の社殿は朝和小学校にあった御真影奉安殿を移したものです

祭神:素盞鳴尊

境内社:住吉神社
住吉神社は、もと堂の芝という観音堂の傍らにありましたが、明治8年に廃寺となり
「一本木さん」に移されました

例祭:野神祭(5月3日)
稲作作業の始まる頃に子供(男)組が中心となって野神を祭る行事です
田に見立てた長方形の小さな砂場で、麦藁で作った牛や馬・竹で作ったミニチュアの農具を使った耕作の儀式が執り行われます
かつては子供相撲も執り行われていました

天理市指定無形民俗文化財(平成13年3月26日天教告示第4号)です

兵庫 ひょうご

大和神社の兵庫のあった場所
(古代は大社や豪族は弓矢槍刀などの武器を納める兵庫を持っていた)
兵庫から大和神社へは、北参道が通じています
裏参道とも呼ばれ、この北参道沿いに北から神護寺・素戔嗚神社が並び大和神社へと通じています

兵庫町の村社 素盞鳴神社・神護寺

【素盞鳴神社】
「天王の森」と呼ばれる社叢(しゃそう)に有ります
大和神社の武器を納めた神社とされます
昔、兵庫には僧兵がいて、大和神社の兵器庫がありました

祭神;素盞鳴尊


例祭:将軍祭
農家の人たちによって行われる兵庫独自のもので「鬼打ち」を行います
呼称は、ショウグンサイのほかショウグンサンあるいはショコンサイという
昔は節分の翌日に行われていたが、現在は節分後の最初の日曜日に行われます
素盞嗚神社へ参拝し、お祓いを受けてから南の田(大和神社北側)で弓打ち式を行います

【神護寺】
かつて大和神社に南之坊・北之坊と二つ神護寺がありました
北之坊(現在の社務所の北側と伝わる)、南之坊(現在の新泉町の素盞嗚神社付近に鎮座)が
現在の場所に移りました
寺門は内山永久寺から移建したものです

本尊:阿弥陀如来坐像

岸田 きしだ

古代は田村から岸田の辺りは湖沼であったので岸田というという説があるが、沼または川の岸にできた田と解されている
新撰姓氏録に岸田臣の名も見える古い地名である
岸田と中山から上街道に出た垣内(かいと)は市場だった
この市場は十市氏が竜王城を築いた頃は盛んであったが十市城が落ちた時に兵火にかかり商業地は隣りの柳本の方へ移行した

岸田町の村社 稚宮神社

元は八幡宮社が本社で、春日神社が摂社と伝わります
古来この地の豪族・岸田伯耆守は崇敬が厚く、八幡宮社の宮座「岸田座」がありました
他に堺池の西堤に天押雲根命を祀る「若宮神社」があって、岸田村の産土神とされていました
明治8年に 若宮神社をこの地に遷座
明治45年には春日神社に合祀して「稚宮神社」と称しました

明治8年までは、境内に青蓮寺の薬師堂がありました
境内手前の小堂脇にある宝篋印塔は岸田伯耆守の供養塔と伝わります
岸田氏が寄進した手水鉢に安政4年(1857)銘があり、社前の石灯籠には寛保2年(1742)と嘉永4年(1851)銘があります
この石灯籠2基は堺池の西堤にあった若宮神社から移されたものです

祭神:大国魂命、天押雲根命、天児屋根命

長柄 ながら

旧社地は現在地の南二町の白鳥池の西堤上にありましたが
第二次大戦中飛行場建設のため小学校校庭に奉遷し、昭和21年10月現在地にうつりました

長柄町の村社 白堤神社

祭神:日本武尊

境内社:大熊神社・稻荷社・三社神社・愛宕神社・龍王神社

延喜式に記載があり、日本武尊の白鳥神か大熊命の白堤神社かについて定かではないが
現在は日本武尊の説をとっております

中山 なかやま

中山中楽寺という奈良朝時代創建の大きな寺のあった地で、昔はこの地方の中心の地でした

中山町に鎮座する歯定神社

医療の神、少彦名神を祀ることから“歯の神”と言われています
古くは葉状神社と呼ばれ、農業・葉物野菜の種蒔きに際して当社に豊作を祈願したと伝わります
春日造りの本殿に切妻造りの拝殿を備えています
拝殿前には石が3個据えられています
人の前歯や犬歯、臼歯を連想させる形の石です

祭神:大己貴神・少彦名神

例祭:1月15日

萱生 かよう

村の東北に草山という山があります
草山から一帯は古墳地帯であり、一面に萱の生えた所があったので萱生とよばれるようになりました

萱生町の村社 菅原神社

萱生環濠集落の中央「堂の山」に鎮座します
創建由緒などは不詳
室町時代にはあったと伝わります
 

祭神:菅原道真

「堂の山」は空路宮山古墳のことです
横穴式石室の古墳です

成願寺 じょうがんじ

中世の成願寺庄の荘園地区です
成願寺の中、大和神社の鳥居前から北側に大和という垣内(かいと 集落のこと)があります
大和神社のもとの鎮座地である長岡岬周辺が、かつての倭の国の場所と伝わります
その後、国名は大和から日本の名になりましたが
その名残りが大和神社と地名の大和にその名を残しています

成願寺町の村社 素盞鳴神社

天皇宮とも呼ばれています
創祀・由緒など不詳ですが、鎮座地は大和神社の南東大和神社四至一つです
社前に天和2年(1682)の石燈籠があります

祭神:素盞鳴尊

境内北側に成願寺薬師堂があり薬師如来像を安置していました
明治8年に廃寺となり仏像は大和郡山市九条に移されました
現在は公民館が建ち、横に石仏が集められています
かつて薬師堂境内にあった八王子神社と銘のある石燈籠が1基残されています

佐保庄 さほのしょう

春日神社の佐保殿庄が佐保庄と呼ばれることになったと言われるますが定かではありません
さほという地名も古語で、小高くなった地形を指すといわれます

佐保庄町の村社 素盞鳴神社

創立時代等は不詳
神宮寺の総堂があったことから、この辺りを『堂の森』と言います
大和神社の四至の一つで南西に位置していましたが、明治18年に現在の場所へうつされました
その後盗難や火災により焼失し
拝殿の北側にはかつての遺跡や石仏が並んでいます

地蔵仏頭(南北朝時代)、庚申(青面金剛像・江戸時代)、阿弥陀・地蔵二体石仏(室町)、阿弥陀一尊仏(室町時代)、五重石塔(鎌倉時代)

祭神:素盞鳴尊
境内社:厳島神社(市杵島姫命)、大田神社(倉稲魂神)

三昧田 さんまいでん

臨済宗の福智堂の三昧田(雑役が免じられる除田のこと)があり
そこに村が出来ました

三昧田町の村社 春日神社

境内社に八坂神社と素戔鳴神社がありました
八坂神社は権現の森にあり、石を神体としていました
明治8年に社殿を建て奉還されました
その後荒廃し、春日神社へ合祀されました
素戔鳴神社は天平8年(736)の創祀です
飢饉が起きたため斎き祀つられたと伝わります
大正11年に八坂神社と素盞嗚神社は合祀されました

祭神:天児屋根命、素戔鳴尊

境内に十三重の石塔(現在は八重)や宝暦6年(1758)の石灯籠があります
十三重の石塔は類まれなものです

境内隅の地蔵堂は「咳乃地蔵尊」と呼ばれ、子供の咳によいとされます
昔は土だんごを供え祈願し、満願の際は飴を供えました
今は飴を供えて快癒祈願します
以前は村の北外れの上街道沿いにあり、旅人の守り地蔵として六字(南無阿弥陀仏)の名号さんとも呼ばれていました

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